空へ!!

旅行やマイルの話を中心に、たまにグルメやラーメンの話など気ままなことを好きなように書いている大阪発信のブログです。

暗い影「地震」と「戦争」 関東大震災 江戸東京博物館より

関東大震災

はじめに

関東大震災と太平洋戦争(第二次世界大戦)の話は、

江戸・東京の歴史を語る上で、避けては通れません。

 

発展を続けてきた東京に大きな傷跡を残した「地震」と「戦争」。

ただ、あまりにもテーマが大きすぎて、

色々な角度から様々な研究が行われており、

ちょっと齧っただけでは、語れる話ではありません。

 

今回は、江戸東京博物館の展示品を中心に

簡単にお話することをお許し下さい。

地震の発生と被害規模

1923(大正12)年9月1日11時58分、

関東地震は発生しました。

その日は土曜日で、会社員は半日勤務、ちょうど帰り支度を済ませた頃、

家では、子供たちの帰りを待って昼食の準備を行っていたのでしょうか。

 

はじめは緩慢な揺れでしたが、徐々に大きくなり、

最後は立っていられなくなったと記録されています。

 

地震の規模はM7.9、震源近くは震度7であったそうです。

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この地震による死者(行方不明者を含む)は105,385人で

東京府の死者は70,387人でした。

また、住宅被害は、全壊、半壊、焼失等を含めると372,659棟、

東京府の被害は205,580棟でした。

(出典:内閣府防災のページ)

 

地震とその後の火災で東京は焦土と化し、

火災が鎮火したのは、2日後の9月3日午前10時ごろでした。

 

関東大震災発生後、離れ離れになった家族や知人を探すため、

市内各所に尋ね人の張り紙が出されました。

東京市でも「尋ね人係」が設けられ、行方不明の人の調査を行いました。

 

このちょうちんは、日比谷公園内に設置された

東京市政調査会の仮事務所に掲げられていました。

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煉瓦造りの建物の倒壊

明治時代から大正時代にかけては、西洋文明を採り入れた

煉瓦造りの建物が各所に建築されました。

 

以前の記事でも紹介した銀座煉瓦街のように、

煉瓦の建物は文明開化の象徴でした。
itmbase.hatenablog.jp

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しかし、煉瓦造りの建物は、凌雲閣の倒壊に象徴されるように

圧倒的に地震に弱く、

銀座煉瓦街もこの関東大震災により、すべて倒壊してしまいました。

地震からの復興

同潤会

1924(大正13)年に震災後の住宅供給を目的に設立された

財団法人同潤会は、地震や火災に強い鉄筋コンクリート造りの集合住宅を

数多く建築しました。

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同潤会は不良住宅改良事業も手掛け、

改良前の衛生状態が悪く火事が起こりやすい住宅を

不燃住宅で衛生状態が良い住宅に変えて行きました。

 

下は同潤会猿江裏町の不良住宅地区の改良前と後の模型です。

<改良前>

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<改良後>

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昭和モダニズム

関東大震災後の復興計画で、道路や建物の整備が進み、

東京は近代都市へと姿を変えていきました。

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新たな鉄道などの交通手段の発達や

通信手段の発達、女性の社会進出など生活の近代化も進んでいきました。

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しかしながら、1929(昭和4)年にアメリカで発生した、

暗黒の木曜日に端を発した世界大恐慌が日本も巻き込み、

昭和大恐慌の時代がやって来ます。

 

そして、その流れは軍国主義へと進み、

やがて戦争の道へと走っていくのです。