大阪 平野郷の春を散策してきました ~1
平野郷の歴史散策
平野郷って何
大阪市の最南東にある平野の地。平安時代初期には坂上田村麻呂の次男である坂上広野麻呂の荘園がここ平野にありました。「広野」が訛って「平野」になったと言われています。862年には杭全神社が創建されています。
広野麻呂の荘園は宇治平等院に寄贈され、平等院の所有となりました。1127年に大念仏寺が創建されると門前町が形成されるようになり、戦国時代には町の周りに二重の濠と土居を巡らせた自治都市となりました。平野郷と呼ばれ、規模は小さいながらも泉州堺と並ぶ自治都市となりました。
JR平野駅からスタート
JR平野駅は大和路線で天王寺駅から2つ目です。ここから平野郷を散策します。平野駅は小さな駅で、駅の前には何もありません。
ここから杭全神社(くまたじんじゃ)に向かう途中、杭全公園でこんなものを見つけました。平野郷環濠跡です。こうした濠が平野郷の周りを取り囲んで外敵からの攻撃を防ぎました。
杭全神社(くまたじんじゃ)
平野郷の守護神
「杭全」と書いて「くまた」と読みます。名前の由来にはいくつかの説があります。
1.杭全に昔から住んでいる人が百済(くだら 朝鮮半島)からの渡来人で、百済が訛って「くまた」になったという説です。ちなみに近くにはJR貨物の百済駅があります。
2.近くを流れる今川の氾濫を防ぐため杭打ちを行い全ての杭打ちが終わったことから杭全になったという説です。
3.古事記に登場する日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の孫「クイマタナガヒコ」のクイマタから来ているという説
どちらにしても「杭全」を「くまた」と読む発想はなかなか無いですね。
そして平野郷の守護神が杭全神社です。荘園の主坂上広野麻呂の子当道が862年に素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る第一殿が奉祀され、祇園社を創建したのが始まりです。その後12世紀に第三殿、14世紀に第二殿が建てられ、現在の三社の規模が出来ました。
この大鳥居は国道25号線に面したものです。
こちらが拝殿になります。
拝殿の奥に三社からなる本殿が建てられています。現在の本殿は、第一殿は奈良春日大社の本殿を1711年に移設したもので、第二殿、第三殿は1513年に造営の記録があります。この第二殿、第三殿は大阪市内の最古の建造物で、本殿三社は国の重要文化財に指定されています。
左から第一本殿、大二本殿、第三本殿と並んでいます。先ほども述べたとおり、第一本殿には素戔嗚尊(スサノオノミコト)が祀られている他、大二本殿は伊弉册尊(イザナミノミコト)、速玉男尊(ハヤタマノヲノミコト)、事解男尊(コトサカノヲノミコト)が、第三本殿は伊弉許尊(イザナギノミコト)が祀られています。
古くは祇園社、熊野権現社と呼ばれていましたが、明治3年に杭全神社に改称されました。
次回は大念仏寺やがんこ平野郷屋敷を御紹介します。