空へ!!

旅行とか、マイルとか、お酒とか

皆さんの給食はどれですか 江戸東京博物館より

学校給食の変遷

戦後の学校衛生刷新

1946(昭和21)年に戦後の学校給食の方針が定まり、

12月24日に東京、神奈川、千葉で試験給食が実施されました。

 

1947(昭和22)年に全国で300万人に学校給食が

開始されました。

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(全国学校給食会連合会ホームページより トマトシチューと脱脂粉乳

1952(昭和27)年には全国すべての小学校で給食が実施されました。

 

1960年代の学校給食

全国の小学校で給食が実施されてからは、

日本学校給食会が脱脂粉乳の輸入業務を開始し、

ユニセフからも脱脂粉乳が寄贈されました。

 

下の写真は1964(昭和39)年のモデル献立資料です。

メニューは揚げパン、脱脂粉乳、おでんでした。 

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1970年代の学校給食

1970(昭和45)年には、

米利用実験指定校、米粉混入パン利用実験実施校、米加工品利用校など

学校給食における米の利用実験が開始されました。

 

また、1976(昭和51)年に、米飯が正式に導入されました。

学校給食用の米穀は消費者用の米価の35%引きだったようです。

 

下の写真は1975(昭和50)年のモデル献立資料です。

食の洋風化とオキアミの食用化が模索されていたそうで、

メニューは、バターロールパン、牛乳、オキアミチーズロールフライ、

八宝菜、果物(メロン)です。

f:id:ITMBASE:20200119164423j:plain1980年代の学校給食

1970年代当時は米は食糧管理法という法律の下、

国が米を全部農家から買い取って、販売していました。

 

しかしながら国の農業政策の失敗により、

国は大量な米を在庫として抱え込むようになってしまいました。

給食はパンが主体だったことから、学校給食に米を出す動きが

政治的に高まっていったのです。

 

1979(昭和54)年には学校給食用の米穀の価格は、

消費者米価の60%引きに定められました。

週1回以上の米飯給食開始校には70%値引きの特別措置が出来ました。

 

下の写真は1987(昭和62)年のモデル献立資料です。

米飯給食が一般化され、一般の家庭の食事と変わらなくなりました。

メニューは、麦飯、牛乳、巻き蒸し、高野豆腐の和え物、

味噌汁、千切りキャベツです。

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1990年代の学校給食

平成に入ると、学習指導要領が改定になり、

学校給食は、特別活動としての学級活動に位置付けられました。

お腹を満たすという給食から、教育活動の一環ということになったのでしょうか。

 

献立も食育の観点から幅広いレパートリーに代わっていきました。

下の写真は1995(平成7)年のモデル献立資料です。

メニューは、餡かけ焼きそば、大学芋、シャキシャキの和え物、

にら玉スープ、果物、牛乳です。

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2000年代の学校給食

1999(平成11)年、学校給食用の米穀の値引き措置が廃止されました。

また、都道府県が自由に米の買付を行えるようになりました。

 

食に関する意識の高まりや、食育の幅が広がり、

テーブルマナーや食事時のコミュニケーション、

メニューを通じた異文化理解に考慮した献立が組まれるようになりました。

 

下の写真は2006(平成18)年のモデル献立資料です。

メニューは、キムチチャーハン、チーズ春巻き、中華風ジャコサラダ、

きのこスープ、やわらか杏仁豆腐、牛乳です。

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 皆さんの給食はどんなでしたか。

給食の変遷、如何でしたでしょうか。

 

江戸東京博物館シリーズは今回が最終回です。

長い間お付き合いいただきましてありがとうございました。

高度経済成長時代の憧れ「ひばりヶ丘団地」 江戸東京博物館より

ニュータウンの誕生

マンモス「ひばりヶ丘団地」

ひばりヶ丘団地は、1959(昭和34)年、

当時の北多摩郡保谷町・田無町・久留米町(現:西東京市東久留米市

の3町にまたがる区域に作られた団地です。

最寄りの駅は西武池袋線ひばりヶ丘駅で、そこからバスで6分

徒歩で15分です。

 

約33.9haの敷地面積に2~4階建ての住棟が184棟建っており、

当時は最先端の建物として注目され、

1960(昭和35)年には、皇太子・皇太子妃(現在の上皇上皇后

の視察をはじめとして多数の要人が視察に訪れ、

その様子は当時のニュースで配信されました。

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UR都市機構ホームページより
 

元は、中島航空金属田無製造所(一部は現住友重機械工業田無製造所)

の跡地です。

造成当時、当団地は日本住宅公団(現UR都市機構)最大の公団住宅であり

後に称される「マンモス団地」の端緒であった他、

野球場・テニスコート、市役所出張所、緑地公園や

名店街、学校、スーパーマーケットなどを団地敷地内に擁し、

団地の街づくりは、後に建設された公団住宅の手本となりました。

 

建蔽率は驚異の33%。

ゆったりした敷地の中に木々が生い茂り、

自然環境に恵まれた住環境と、

都心へのアクセスの良さは高度経済成長時代の憧れとなりました。

団地再生事業 

この「憧れの団地」も40年以上がたち、老朽化が進み、

レトロな街並みと言われるようになりました。

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UR都市機構は1999(平成11)年から団地再生事業に着手。

樹木など既存の環境資源を生かし、緑と十分な空間を確保したまちづくりと、

団地の歴史を継承することを基本方針として、

まず賃貸住宅の建て替えを実施。

2012(平成24)年に完了、ひばりが丘パークヒルズに生まれ変わった。

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UR都市機構ホームページより

江戸東京博物館ひばりヶ丘団地が再現 

当時の最新設備が庶民の憧れ

江戸東京博物館では、2015年の常設展示リニューアルの際に、

1962(昭和37)年頃のひばりが丘団地の室内の様子を

実物大模型で再現した展示を新設しました。

 

当時は高度経済成長の真っ只中。

1956年に経済白書で「もはや戦後ではない」と記述され、

同年に国際連合に加盟、

日々経済成長を感じられる時代だったようです。

三種の神器と言われた洗濯機、冷蔵庫、白黒テレビが

庶民の憧れとなりました。

 

下はひばりヶ丘団地のダイニングの様子です。

部屋には冷蔵庫が置かれ、ベランダには洗濯機が見えます。

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水洗トイレとお風呂です。

1962(昭和37)年頃は、

まだ汲み取り式トイレと銭湯が一般的だった時代でした。

当時の最新設備を備えていました。

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このひばりヶ丘団地を皮切りに、日本各地に団地が造成され、

ニュータウンが造られ、生活の進化が進んでいきました。

暗い影「地震」と「戦争」 太平洋戦争 江戸東京博物館より

太平洋戦争

日中戦争の果てに

軍国主義に邁進した日本は盧溝橋事件を発端に

1937(昭和12)年9月より日中戦争(当時は支那事変)に突入しました。

 

そして以下はWikipediaからの引用になりますが、

「予想外の総力戦となった日中戦争は泥沼化し、解決のめどが立たなくなっていた。

そのため日本は南進を行い、中国国民党への物資の補給路を断ち、石油などの戦略物資を入手することで日中戦争の解決を図った。 

南進が欧米の反発を買うことは必至であったが、欧州は第二次世界大戦により東アジアより後退していたため、アメリカへの対策が問題となった。

そこで日独伊三国同盟や日ソ中立条約を結び、アメリカを包囲することで南進への反発を抑えようとした。 

しかしアメリカはこれに強く反発し南進を認めず、日米開戦へと至った。」

 

1941(昭和16)年12月8日ハワイオアフ島にある

アメリカ軍基地に対する真珠湾攻撃を行ったことで

太平洋戦争は開戦しました。

 

開戦直後は日本軍が優勢の場面もありましたが、

国力の圧倒的な差からアメリカから反撃を受け、

日本国内も空襲の攻撃を受けるようになりました。

戦時中の庶民の暮らし

下は空襲が本格化する前の

東京下町にあった木造家屋の一部再現です。

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窓には爆風によるガラスの散乱を防ぐために紙が貼られ、

電灯には明かりが外に漏れないよう灯火管制用のカバーが掛けられていました。

 

室内には防空頭巾や鉄カブトが置かれ、

空襲の情報を仕入れるためにラジオは必需品となっていました。

 

1942(昭和17)年4月18日の初空襲の後、

防空訓練は日常化しました。

 

内務省からは各家庭で準備すべき消火道具が示されました。

用水をためておく貯水槽や、消火用の砂袋、注水用のバケツなどです。

竹竿に縄をくくりつけられた火叩きは、

火の粉を消すための道具でした。

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政府は、貴金属や繊維、革製品、ゴム、石炭、石油などの

民間での使用を規制し、

家庭内の貴金属や、鉄製品の改修を推し進めました。

 

その為、日用品は金属に代わって、

陶磁器や木製品、紙製品に置き換わっていきました。

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東京大空襲

アメリカ軍の戦略爆撃

太平洋戦争当初は、アメリカ軍の基地はインドカルカッタにあり、

中国成都を経由して日本に空襲を行っていたことから、

飛行距離の関係で九州に空襲を行うことが精一杯でした。

 

戦争が進み、グアム、サイパンを日本から奪取し、

アメリカ軍はマリアナ基地を置いたことから、

日本列島のほぼすべてが爆撃範囲となりました。

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東京都は1944(昭和19年)11月24日以降106回の空襲を受けました。

特に1945(昭和20年)に5回の大規模空襲を受けました。

 

下は5月25日の空襲の被災地域です。

東京都のほぼ全域が焼き尽くされました。

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学童疎開

1944年にアメリカ軍の空襲が起こってから、

学童を田舎の比較的安全な地域に避難させる学童疎開が始まりました。

 

疎開先では、公会堂、寺社、旅館などが宿舎となり、

そこで授業も行われました。

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1945年までの疎開児童は約45万人に上ったと言われています。

終戦

沖縄戦東京大空襲、広島長崎の原爆投下などを経て、

1945(昭和20)年8月15日ポツダム宣言を受け入れて

日本の降伏で、太平洋戦争は終わりました。

 

1945(昭和20)年9月の初め、

新聞に「光は新宿よりー」というキャッチコピーとともに

新宿マーケットの広告が載りました。

 

戦争が終わって、1月も経たないうちに

闇市が生まれたのです。

空襲で焼け野原となっていた駅前に誕生し、

鍋や包丁、茶碗などの生活用品が販売されました。

 

10月頃までには、新宿の他、上野、銀座、渋谷、新橋など

都内各所の駅前に大きな闇市が出来ました。

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ここから日本の戦後の復興が始まっていったのです。

 

暗い影「地震」と「戦争」 関東大震災 江戸東京博物館より

関東大震災

はじめに

関東大震災と太平洋戦争(第二次世界大戦)の話は、

江戸・東京の歴史を語る上で、避けては通れません。

 

発展を続けてきた東京に大きな傷跡を残した「地震」と「戦争」。

ただ、あまりにもテーマが大きすぎて、

色々な角度から様々な研究が行われており、

ちょっと齧っただけでは、語れる話ではありません。

 

今回は、江戸東京博物館の展示品を中心に

簡単にお話することをお許し下さい。

地震の発生と被害規模

1923(大正12)年9月1日11時58分、

関東地震は発生しました。

その日は土曜日で、会社員は半日勤務、ちょうど帰り支度を済ませた頃、

家では、子供たちの帰りを待って昼食の準備を行っていたのでしょうか。

 

はじめは緩慢な揺れでしたが、徐々に大きくなり、

最後は立っていられなくなったと記録されています。

 

地震の規模はM7.9、震源近くは震度7であったそうです。

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この地震による死者(行方不明者を含む)は105,385人で

東京府の死者は70,387人でした。

また、住宅被害は、全壊、半壊、焼失等を含めると372,659棟、

東京府の被害は205,580棟でした。

(出典:内閣府防災のページ)

 

地震とその後の火災で東京は焦土と化し、

火災が鎮火したのは、2日後の9月3日午前10時ごろでした。

 

関東大震災発生後、離れ離れになった家族や知人を探すため、

市内各所に尋ね人の張り紙が出されました。

東京市でも「尋ね人係」が設けられ、行方不明の人の調査を行いました。

 

このちょうちんは、日比谷公園内に設置された

東京市政調査会の仮事務所に掲げられていました。

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煉瓦造りの建物の倒壊

明治時代から大正時代にかけては、西洋文明を採り入れた

煉瓦造りの建物が各所に建築されました。

 

以前の記事でも紹介した銀座煉瓦街のように、

煉瓦の建物は文明開化の象徴でした。
itmbase.hatenablog.jp

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しかし、煉瓦造りの建物は、凌雲閣の倒壊に象徴されるように

圧倒的に地震に弱く、

銀座煉瓦街もこの関東大震災により、すべて倒壊してしまいました。

地震からの復興

同潤会

1924(大正13)年に震災後の住宅供給を目的に設立された

財団法人同潤会は、地震や火災に強い鉄筋コンクリート造りの集合住宅を

数多く建築しました。

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同潤会は不良住宅改良事業も手掛け、

改良前の衛生状態が悪く火事が起こりやすい住宅を

不燃住宅で衛生状態が良い住宅に変えて行きました。

 

下は同潤会猿江裏町の不良住宅地区の改良前と後の模型です。

<改良前>

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<改良後>

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昭和モダニズム

関東大震災後の復興計画で、道路や建物の整備が進み、

東京は近代都市へと姿を変えていきました。

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新たな鉄道などの交通手段の発達や

通信手段の発達、女性の社会進出など生活の近代化も進んでいきました。

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しかしながら、1929(昭和4)年にアメリカで発生した、

暗黒の木曜日に端を発した世界大恐慌が日本も巻き込み、

昭和大恐慌の時代がやって来ます。

 

そして、その流れは軍国主義へと進み、

やがて戦争の道へと走っていくのです。

大正浪漫の「浅草」を感じてみた 江戸東京博物館より

繁華街「浅草」

浅草6区

大正期において浅草は帝都の娯楽の中心でした。

興行街であり、飲食街であり、そして歓楽街と

賑わいが絶えませんでした。

 

花屋敷などの多くの娯楽施設があり、

活動写真館(映画館)や、劇場があり、

浅草公園や花屋敷には各種の大道芸が集まりました。

 

その反面、十二階下に代表される私娼窟や、

浮浪者が暮らしやすい環境であった為か、

スラム街の様相を呈しているところもあったようです。

 

元々、江戸時代には浅草周辺は興行街であったのですが、

興行街は浅草から出て行ってしまい、一度廃れてしまいました。

1884(明治17)年、浅草は1区から6区までに区画整理されました。

この時、浅草寺裏の通称・浅草田圃の一部を掘って池(ひょうたん池)を造り、

池の西側と東側を築地して街区を造成、

これが第6区となり、浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し、

歓楽街が形成されました。

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浅草の六区は下記の様になっています。

1区 浅草寺境内

2区 弁天山(弁天堂)を含む、宝蔵門一帯

3区 伝法院、心字池一帯

4区 瓢箪池の辺りの本堂西側

5区 本堂裏手、奥山、花屋敷

6区 凌雲閣の南側、3区、4区の西側に位置する南北に長い興行街

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 映画館の町

明治30年頃から活動写真が輸入されはじめ、

同じく30年代には国産の映画が作成されるようになります。

そして30年代末期には浅草は活動写真が大流行し始め、

大正期にはその隆盛を極めました。

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1903(明治36)年に日本発の常設の活動写真館「電気館」が出来ました。

日露戦争によって戦況を知らせるフィルムを毎週流していたそう。

明治40年代には日本の各地で常設の活動写真館が建設されていきます。

このなかで浅草は丸屋根の欧風建築の活動写真館が立ち並ぶようになりました。

当震災に遭い、多くの活動写真館が炎上、崩壊しましたが

いち早くバラック建てで営業を再開し、昭和の初期までは人気を保ちます。

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凌雲閣の盛衰 

12階建ての高層建築

江戸時代には、高層建築は禁止されていました。

高層建築と言えそうなものは、城、物見櫓、寺社の五重塔くらいなものであり、

庶民には無縁なものばかりでした。

 

1890(明治23)年、上野公園で開かれた第三回内国勧業博覧会の目玉として

通称「十二階」、正式名称「凌雲閣」の建設が始まりました。

 

凌雲閣が建設された理由には、

明治20年代に高所からの眺めを売り物にした

望楼建築がブームとなっていたことがあります。

前年の1889(明治22)年には、

大阪に9層楼の「凌雲閣」が建設されました。

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ところが、博覧会の開催中に建築は終わらず、

結局博覧会が終わって4ヶ月経った同年11月に開場することになりました。

 

煉瓦に囲まれた八角塔は、

全長52mと当時としては驚くべき高さで、

「雲を凌ぐほど高い」という意味で「凌雲閣」と命名されました。

しかし、凌雲閣が12階建てだったことから、

一般的には「浅草十二階」と呼ばれるようになりました。

 

一階から十階までが煉瓦造り、十一、十二階は木造となっていました。

内部は二階から八階までは全て商店、

九階は休憩室と陳列室、十階以降は展望となっており、

十二階には望遠鏡が備え付けられていました。

 

東京における高層建築物の先駆けとして建築され、

日本初の電動式エレベーターが設置されました。

そして、このエレベーターこそ、凌雲閣最大の「売り」でした。

 経営難に

しかし、売りであったはずのエレベーターは故障が多く、

翌年にはエレベーターは閉鎖されてしまったのです。

エレベーターの閉鎖によって、明治末期には客足が減り、

深刻な経営難に陥りました。

時には「東京百美人」という東京中の芸者の写真を張り出し、

美人コンテストなども行いましたが、

経営の建て直しはほぼ困難な業況になってしまいました。

 

1920年頃になると、凌雲閣の周辺一帯も徐々に風紀が乱れ、

十二階下と呼ばれる私娼窟は、

まさに十二階自体に人が寄り付かなくなると同じ時期に拡大し、

浅草の(それを目的とする人の)密かな名所となっていきます。

(十二階はその目印として語られます)。

凌雲閣の最期 

もはや、瀕死ともいえる凌雲閣に止めを刺したのが

1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災でした。

 

地震により建物の8階部分より上が崩壊しました。

それまでの日本の西洋建築は「レンガ造り」が広まっていました。

しかし、関東大震災によりその脆さが露呈することとなってしまいました。

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凌雲閣は、経営難から復旧が困難であったため、

同年9月23日に陸軍工兵隊により爆破解体されました。

33年間浅草のシンボルだった浅草十二階は、

呆気ない最後を迎えることとなりました。

散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする 江戸東京博物館より

大政奉還による無血開城

江戸から明治へ

徳川幕府が265年という長い期間政権を握っていた江戸時代は、

第15代将軍、徳川慶喜大政奉還により、終焉を迎えました。

 

ペリーが来航することで、

今まで鎖国状態にあった日本は、外国の力の強さを痛感し、

幕府は日米修好通商条約を結ぶことになってしまいました。

この条約は不平等条約で、

函館、新潟、横浜、神戸、長崎の5港を開港、

治外法権を認める、

関税自主権がない

といったものでした。

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 貿易が開始されたことにより、

安価な綿製品が大量に輸入され、

生糸やお茶の値段が高騰しました。

 

日本と外国との金銀の交換比率の差から金が流出し、

金の流失を抑えようと質の悪い金貨を発行し、

その結果、インフレが蔓延して経済が混乱しました。

 

下級武士や庶民は経済的に大打撃を受け、

幕府への不満も高まっていきました。

 

こうした流れを受け、倒幕と尊王攘夷論の流れが高まり、

政権を朝廷に返上し、江戸時代は終わったのです。

明治維新を迎えて

明治政府に代わってからは、政府主導で積極的に、

海外の文化を取り入れるようになっていきました。

 

1870(明治3)年、先進国の国情を視察するために、

岩倉具視大久保利通伊藤博文ら総勢107名が

岩倉使節団が派遣されました。

約2年に亘って、アメリカやイギリスなど14か国を巡り、

近代国家の技術や文化を学んできました。 

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岩倉使節団の帰国後、

近代国家建設”をスローガンに、

西洋の制度や技術の輸入に、より一層注力しました。

 

鉄道、郵便、電信、電話などの西洋の交通・通信手段が導入され、

人や物衣服や住宅、文学や演劇など、

生活や文化の面にも欧米文化の導入が推し進められました。

 

街にはガス灯がともり、道には馬車が走ります。

着物から洋服姿になり、ちょんまげは切り落とされ、

散切り頭がブームになりました。

 

まさに文明開化です。

近代国家へ

洋風建築物の建築ラッシュ

街には近代国家にふさわしい建築物も、

次々に建設されていきました。

 

外国人居留地が置かれ、

商社をはじめ、公使館、領事館、教会、ミッションスクールなどの

洋風建築物が建ち並びます。

 

第一国立銀行は1873(明治6)年に

渋沢栄一により創設された日本最古の銀行です。

場所は兜町海運橋東詰にありました。

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為替バンク三井組は1874(明治7)年に完成した建物です。

場所は現在の中央区で設計者は清水店(現在の清水建設)でした。

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鹿鳴館は1883(明治16)年に建築されました。

国賓や外国の外交官を接待するための建物で

外国との社交場の場として作られました。

場所は現在の千代田区内幸町で、薩摩藩の邸宅の跡地だったそうです。

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銀座煉瓦街

1872(明治5)年に、築地から京橋、銀座一帯を大火が襲いました。

これをきっかけに、明治政府は東京を

欧米並みの不燃都市に改造することに決めました。

この構想から生まれたのが「銀座煉瓦街」です。

 

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六間(約11m)しかなかった道幅は

十五間(約27m)の大通りになりました。

中央八間は馬車道、左右は煉瓦や石敷きの歩道へと代わり、

ガス灯も設置されました。

 

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建物は煉瓦と石を使った2階建て長屋式で、

アーケードのついたジョージアン様式で統一されました。

こうして、銀座の街は文明開化のシンボルになったのです。

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火事と喧嘩は江戸の華 江戸東京博物館より

江戸の大火

江戸は2~3年に1回大火に見舞われていた

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるように、

江戸時代の江戸の町は多数の火事に見舞われました。

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一説によると江戸の大火は100回以上起こったとも言われ、

2~3年に1回は大火に見舞われたそうです。

中でも「明暦の大火」「目黒行人坂の大火」「丙寅(ひのえのとら)の大火」は

江戸の三大大火と呼ばれ、江戸の町に大きな被害をもたらしました。

 明暦の大火

1657年(明暦3)1月18、19日の両日にわたって

江戸の町が大火に見舞われました。

この大火は振袖(ふりそで)火事、丸山火事とも言われています。

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前年11月以来80日も雨が降らず乾燥しきっていたうえ、

北西風が激しく吹いていました。

本郷丸山の本妙寺他3か所から出火しました。

その火は大名屋敷500、旗本屋敷770、寺社350、

橋60、町屋400町を焼き尽くし、

19日正午過ぎには江戸城天守閣に火が入って焼け落ち、

本丸・二の丸も焼失してしまいました。

 

類焼地域は江戸全市に及び焼死者は10万人を超えました。

寒気と21日の大吹雪のため罹災(りさい)者の凍死する者が多く、

幕府は救(すくい)小屋を設けたり粥(かゆ)の施行(せぎょう)をして

救済にあたりました。

 

この大火を機に江戸の都市計画が進められ、

大名、旗本宅地の引き替え、寺社の移転、火除地(ひよけち)、

広小路の新設など多方面に及んだそうです。

 

振袖火事の名称の由来は、

亡くなった16歳の娘の供養で着ていた紫の振袖を焼き捨てたところ、

火がついたまま舞い上がって本妙寺本堂に燃え移り、

ついに江戸中を焼き払ったためと伝えられています。

目黒行人坂の大火

明和9年2月29日(1772年4月1日)に、江戸で発生した大火で、

目黒行人坂(現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、

目黒行人坂大火と呼ばれています。 

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類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えました。

山王神社神田明神湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災しました。

死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えたそうです。

 

出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という僧侶による放火でした。

真秀は明和9年(1772年)4月頃に捕縛され、

同年6月21日(1772年7月21日)に市中引き回しの上、

小塚原で火刑に処されました。

丙寅の大火

文化3年3月4日(1806年4月22日)に江戸で発生した大火のことで

丙寅の年に出火したため、丙寅の大火と呼ばれています。

出火元は芝・車町(現在の港区高輪2丁目)の材木座付近で

薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)や増上寺五重塔を全焼させました。

折しも西南の強風にあおられて木挽町数寄屋橋に飛び火し、

そこから京橋・日本橋の殆どを焼失。更に火勢は止むことなく、

神田、浅草方面まで燃え広がりました。

 

翌5日の降雨によって鎮火したものの、

延焼面積は下町を中心に530町に及び、

焼失家屋は12万6000戸、死者は1200人を超えたと言われています。

大火の原因と対策 

火事の原因

火事の原因には、調理や照明用に火を使用することによって発生する失火、

様々な動機による放火などがありました。

 

江戸の大火が他の大都市に比べて多かった理由としては、

膨大な人口が居住することによる建物の密集や困窮した下層民の存在、

江戸の独特な気象条件などがあげられます。

 

特に江戸の火事の原因としては、放火が多く記録されています。

江戸の物価の高さや保証人がなく奉公に出られないことなどにより、

困窮し江戸で生活していけなくなったものが多かったことや、

火事で焼け出されたとしても、失うものが少ないことが背景にありました。

 

また火事の騒ぎに紛れて盗みを働くことを目的とした火事場泥棒であったり、

奉公人による主人への不満や報復・男女関係による怨恨や脅迫など、

人間関係に起因する放火も多かったようです。

町火消

享保5年(1720年)、享保の改革の一環として町火消が制度化されました。

これは町人による火消であり、

各町ごとに火消人足の用意と火事の際に出動する義務を課したものです。 

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町奉行に就任した大岡忠相が名主などの意見も取り入れて考案し、

複数の町を「組」としてまとめ、

隅田川から西を担当するいろは組47組

(のちに1組増加していろは四十八組となる)と、

東を担当する本所・深川の16組が設けられました。

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また、享保15年(1730年)には、

火事場への動員数増加と効率化を目的として、

数組ずつに分けて統括する大組が設けられました。

 

町火消は当初町人地の消防のみを担当していましたが、

町火消の能力が認められるに従って活動範囲を拡大し、

武家地への出動をはじめ橋梁・神社・米蔵などの消火活動も命じられ、

江戸城内の火事にも出動しました。

 

幕末には武家火消が大幅に削減されたため、

江戸の消防は町火消が主力となって明治維新を迎えることとなりました。

火消の方法とは

火消は消火活動をするというより、

炎が広がらないよう被害を最小限にすることが主な仕事だったようです。

 

竜吐水(りゅうどすい)というポンプでチョロチョロと水を出して

桶で水をかけ、

メインの火消の方法は、

鳶口(とびぐち)やまさかりで建物を壊して延焼を防ぐことでした。

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風が吹いてきたら

何と、風下から大きな団扇であおぎ返すのでした。

 

火の延焼を防ぐよう、いろいろな試みが為されましたが、

あまり効果は上がらなかったようです。