空へ!!

旅行やマイルの話を中心に、たまにグルメやラーメンの話など気ままなことを好きなように書いている大阪発信のブログです。

大阪 平野郷の春を散策してきました ~3

南海平野線の跡を訪ねて

南海平野線とは

南海電車平野線は、平野駅天王寺恵美須町を結んでいた南海電車の軌道線で、その内西成区今池町から平野駅区間を南海平野線と呼んでいました。1914(大正3)4月に阪堺電気軌道(初代)平野支線として開業し、1915年に南海鉄道と合併し、南海平野線となりました。

 

その後沿線の開発と宅地化が進んだため、路面電車では輸送が間に合わなくなり、1971(昭和46)年の都市交通審議会で高速鉄道の建設が必要と答申されました。そして大阪市営地下鉄(現大阪メトロ)谷町線天王寺からの延伸が決まり、1980(昭和55)年の谷町線の開通とともに、南海平野線は廃止されました。

今の南海平野駅

今でも商店街は平野南海(NANKAI MALL)となっています。

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そしてこの通りを進んでいくと南海平野駅跡があります。現在は公園として整備され、大阪市が管理をしているようです。

駅のホームと線路が再現されています。 

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八角形の駅舎のモニュメント。

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壁にはモ205型の電車が描かれていました。モ205型電車は開業当初の木造車を昭和10年代に鋼製に改造したもので通称「改造車」と呼ばれ親しまれていたそうです。

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サンアレイ平野本町通商店街

昔ながらの商店街

最盛期には100件以上の店舗で賑わったここサンアレイ平尾本町商店街ですが、現在も50店舗以上の商店で賑わっており、シャッター商店街ではありません。

 

旧南海平野駅を北にほんの数十m進んだとことにアーケードの入り口はあります。

古い建物も見受けられ、古くからの商店街であることが分かります。南海平野線の廃線の影響は大きかったのでしょう。

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中でも見どころは小林新聞舗です。新聞販売店ですがレトロな建物が素敵です。

商店街の1店舗には見えない迫力です。

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薬師堂全興寺

サンアレイ平野本町通商店街に面して建っているのが薬師堂全興寺です。本尊は薬師如来像で聖徳太子の作と伝えられています。平野がまだ広茫たる野原であった頃、ここに薬師堂が建てられ、ここから人が住み始めて行ったと言われ、旧町名平野野堂町の起源になったと言われています。

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現在の本堂は1576年坂上利治によって再建されたものと言われ、大阪府下の木造建築の中でも古いものの一つです。

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ここのお寺には変わった物が沢山あり、この石の穴に頭を入れると地獄の釜の音が聞こえますとか、

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手清石をまわしながらおいのりする「おいのりさん」とか

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極めつけは仏の国と地獄堂です。

こちらは仏の国。

これはいったい何なのでしょうか。

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地獄堂はこちら。

入館料が100円かかります。子供ずれで満員だったので残念ながら中は見ていません。中から子供の鳴き声が聞こえてきました。興味がある方は現地で拝観してみてください。

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他にも駄菓子屋さんのミニ博物館もあり、古いお寺でありながら、色々と工夫を凝らしているようでした。

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暖かい春の日、平野郷を満喫してきました。

新型コロナウイルスの影響で家の中にジトッと籠っているよりも、人込みを避けて屋外で楽しむのも気分転換になります。

 

今回で平野郷の記事は終わります。

お読みいただきまして有難うございました。

大阪 平野郷の春を散策してきました ~2

大念仏寺

融通念仏総本山のお寺

JR平野駅から国道25号線を横断したすぐ奥に大念仏寺は有ります。ここ大念仏寺は比叡山延暦寺の僧良忍が1127年に創建しました。日本最初の念仏道場です。

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一時期は後継者に恵まれず、寺勢は振るわなくなりましたが、1321年に法明が融通念仏宗を再興すると寺の門前町が現れて、平野郷に繋がっていきました。

 

境内の広さは24,000㎡(約7,300坪)と広大で境内には30余の堂宇があります。

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こちらの山門を潜り抜けると目の前には・・・。

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大きな本堂に遭遇します。

棟行(南北)39.1m、梁行(東西)49.8mの大阪府下最大の木造建築だそうです。

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こちらの本堂は、1938(昭和13)年に復元されたもので総欅(けやき)造銅板葺です。2003(平成15)年に国の登録有形文化財に登録されました。

 

本堂の中には自由に上がることが出来ます。

正面宮殿には本尊十一尊天得阿弥陀如来画像があり、そのわきに極彩色の多聞天王、八幡大士の木造が脇を固めます。

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こちらの建物は経蔵で元禄年間の創建だそう。蔵の中には中央に経箱が置かれ回転させる構造になっています。これは天法輪(てんぽうりん、教えを説くこと)を意味し、経の功徳が普く行きわたることを願ったものになっています。

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こちらは圓通殿(観音堂)です。平成元年に復元されたものです。

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馬場口地蔵

平野郷は濠と土居に囲まれた環濠集落でした。濠を渡ってこの環濠集落に入るための入り口が十三口あって、入口には地蔵尊が置かれていました。今でもその地蔵尊は残されていますが、その一つが馬場口地蔵です。

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この馬場口地蔵は大念仏寺の山門のすぐ傍らに置かれていました。馬場口門の横に設置されていましたが、奈良街道の大阪、天王寺をつなぐ道に接しており、大阪から大念仏寺への参道となっていました。

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がんこ平野郷屋敷へ

奈良街道

これがいつごろの建物なのか、私には良くわかりませんが、昔奈良街道であったと思われる道を歩くと、雰囲気のある大きな建物に遭遇します。こうした道を散策しながら、がんこ平野郷屋敷に向かいます。

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旧辻本家住宅

平野郷鞍作の豪農辻本家の江戸時代に建てられた旧辻本家住宅があります。現在は大阪を中心に和食レストランを経営する「がんこ」の平野郷屋敷店として利用されています。約1,100坪の敷地に800坪の床面積の母屋、長屋門、蔵5棟、茶室などが建っています。

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1704年の大和川付け替えに伴う新田開発で綿花栽培が盛んになり、その集散加工の中心地として発展し、河内木綿として全国に出回りました。代々豪農であった主の辻本家は、江戸時代より、庄屋、村長などの要職を務めたそうです。

 

次回は旧南海平野線の平野駅跡周辺を散策します。




 

大阪 平野郷の春を散策してきました ~1

平野郷の歴史散策

平野郷って何

大阪市の最南東にある平野の地。平安時代初期には坂上田村麻呂の次男である坂上広野麻呂の荘園がここ平野にありました。「広野」が訛って「平野」になったと言われています。862年には杭全神社が創建されています。

 

広野麻呂の荘園は宇治平等院に寄贈され、平等院の所有となりました。1127年に大念仏寺が創建されると門前町が形成されるようになり、戦国時代には町の周りに二重の濠と土居を巡らせた自治都市となりました。平野郷と呼ばれ、規模は小さいながらも泉州堺と並ぶ自治都市となりました。

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 JR平野駅からスタート

JR平野駅大和路線天王寺駅から2つ目です。ここから平野郷を散策します。平野駅は小さな駅で、駅の前には何もありません。

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ここから杭全神社(くまたじんじゃ)に向かう途中、杭全公園でこんなものを見つけました。平野郷環濠跡です。こうした濠が平野郷の周りを取り囲んで外敵からの攻撃を防ぎました。

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杭全神社(くまたじんじゃ)

平野郷の守護神

「杭全」と書いて「くまた」と読みます。名前の由来にはいくつかの説があります。

1.杭全に昔から住んでいる人が百済(くだら 朝鮮半島)からの渡来人で、百済が訛って「くまた」になったという説です。ちなみに近くにはJR貨物の百済駅があります。 

2.近くを流れる今川の氾濫を防ぐため杭打ちを行い全ての杭打ちが終わったことから杭全になったという説です。

3.古事記に登場する日本武尊ヤマトタケルノミコト)の孫「クイマタナガヒコ」のクイマタから来ているという説

どちらにしても「杭全」を「くまた」と読む発想はなかなか無いですね。

 

そして平野郷の守護神が杭全神社です。荘園の主坂上広野麻呂の子当道が862年に素戔嗚尊スサノオノミコト)を祀る第一殿が奉祀され、祇園社を創建したのが始まりです。その後12世紀に第三殿、14世紀に第二殿が建てられ、現在の三社の規模が出来ました。

 

この大鳥居は国道25号線に面したものです。

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こちらが拝殿になります。

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拝殿の奥に三社からなる本殿が建てられています。現在の本殿は、第一殿は奈良春日大社の本殿を1711年に移設したもので、第二殿、第三殿は1513年に造営の記録があります。この第二殿、第三殿は大阪市内の最古の建造物で、本殿三社は国の重要文化財に指定されています。

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左から第一本殿、大二本殿、第三本殿と並んでいます。先ほども述べたとおり、第一本殿には素戔嗚尊スサノオノミコト)が祀られている他、大二本殿は伊弉册尊イザナミノミコト)、速玉男尊(ハヤタマノヲノミコト)、事解男尊(コトサカノヲノミコト)が、第三本殿は伊弉許尊(イザナギノミコト)が祀られています。

 

古くは祇園社熊野権現社と呼ばれていましたが、明治3年に杭全神社に改称されました。

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次回は大念仏寺やがんこ平野郷屋敷を御紹介します。

大阪・西成あいりん地区の今を歩いてきた

大阪・あいりん地区の現状

歴史的背景

明治時代の大阪市内の木賃宿規制により、木賃宿とスラム街は大阪市外の今宮村にある釜ヶ崎(あいりん地区)に移転してきました。木賃宿は元々は都市流入人口の一時的な対流地の役割を果たしていましたが、その後失業者の溜まり場となり、スラム街となっていったのです。

 

戦後焼け野原となりましたが、大阪市が浮浪者、貧困者対策を重視したことから日本各地の貧困者や浮浪者が釜ヶ崎に集積してきて、ドヤ街が出来たと言われています。特に1960年代は高度経済成長期であり、大阪万博の特需で建築関係の仕事が多数あったことから、全国各地から日雇い労働者が釜ヶ崎に集まってきました。

 

ちょっと古い資料ですが、2006年3月に発行された「大阪市西成区生活保護受給の現状」(大阪市健康福祉局保護課 他)での60歳以上の生活保護受給者の聞き取り調査によると、大阪以外の近畿、中国、四国、九州、沖縄出身者が全体の57%を占めています。また、バブル期の1990年頃より前である20年以上前からあいりん地区に住んでいる住人が61%いることがわかります。

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ところで、ドヤ街とは日本の高度経済成長時代を支えてきた日雇い労働者が生活している町の事です。多くの日雇い労働者たちが仕事を求めて全国から訪れ、建築、土木、港湾事業などの日雇い労働に従事して夜はその町に寝泊まりします。こうした労働者たちが寝泊まりする簡易宿泊所のことを「ドヤ」と呼び、バブル期にはこうした簡易宿泊所は多くはビル形式のホテルに建て替えられました。

 

全国には大きなドヤ街が6か所あります。

・東京都台東区山谷

・神奈川県横浜市中区寿町

・愛知県名古屋市中村区笹島

大阪市西成区釜ヶ崎

兵庫県神戸市兵庫区新開地

・福岡県福岡市博多区築港

中でも20,000人以上の人口を抱える釜ヶ崎(あいりん地区)は日本一の規模となっています。

今のあいりん地区は

あいりん地区は大阪環状線南海電車が交わる新今宮駅南海電車萩ノ茶屋駅から堺筋までの場所に存在しています。

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あいりん地区の人口は20,000人を超えていると言われていますが、詳細な数字は有りませんので、範囲は広くなりますが西成区の資料を見てみます。

 

あいりん地区に居住している人は男性9割、女性1割と言われています。それを表したのが下のグラフです。西成区の人口の男女比率は圧倒的に男性が多くなっています。

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またあいりん地区では高齢化が非常に進んでいます。日雇労働者として大阪万博の1970年にとして大阪に出てきた人、バブル期の1990年頃に大阪に出てきた人は、もうかなりの年齢になります。日雇労働の仕事が無くなって仕事にあぶれているというよりは、高齢化で仕事が出来ないという方が正しいのかもしれません。

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その為、生活保護の受給者が他の地域と比べて圧倒的に多く、貧困に付け込んだ悪徳ビジネスが社会問題になっています。平成31年1月の資料によると、西成区生活保護率は232.5‰(1,000人中232.5人)となっています。山谷のある東京都台東区が74.5‰、(平成27年)、寿町のある横浜市中区が61.8‰(平成24年)であることと比べると3~4倍多いことが分かります。

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そしてあいりん地区を抱える大阪府生活保護率は全国一となっています。

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もう一つの問題は、高齢化以外に日雇労働による肉体の酷使や、保険に未加入であったことから、身体に障がいを持つ人が非常に多いことが上げられます。

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 西成あいりん地区を歩く

旧あいりん労働福祉センター

旧あいりん労働福祉センターは、あいりん地区のランドマークとして存在しましたが、2019年4月24日に閉鎖されました。本来は3月31日をもって閉鎖される予定でしたが、労働者が閉鎖を反対して居座り、警官隊によって排除されたそうです。

 

併設された大阪社会医療センター附属病院も隣接する小学校跡地に新病院が建てられており、2020年12月に引越します。この建物も建て替えられ新センターは2025年に完成する予定です。

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この建物は大阪万博が開催された1970年に竣工されて以来、日雇労働を斡旋する場所として、仕事があぶれた人の生活する場所として、或いは憩いの場所として使われてきました。センターのシャッターが締められた後もセンターの前にはあいりん地区に暮らす人の家財道具が並んでいます。

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仮の労働福祉センターは南海電車の高架下に作られていましたが、規模は大分縮小されていました。

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バックパッカーの宿

最近の西成あいりん地区は欧米人のバックパッカーの宿としても注目されていました。海外と比べれば、あいりん地区といえども治安が良いことと、宿代が格安なことで人気となっていました。1泊1,500円のアパートの案内板には、英語、中国語、韓国語、日本語の説明がありました。

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ただ、今の新型コロナウイルスの影響で、外国人も少なくなり、街は閑散としていました。

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萩ノ茶屋駅

あいりん地区への入り口は南海電車萩ノ茶屋駅新今宮駅になります。萩ノ茶屋駅の様子がこちらです。

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20年以上前に大阪出身の大学の先輩から、「西成は行ったらあかん。タバコを1本恵んでくれと言われて差し出したら、周りから人が集まってきて、俺にもくれ俺にもくれと。怖くなってタバコを置いて逃げてきた。」なんて話を聞かされました。

 

時間は過ぎて、街は静かになりました。でも色々な問題を抱えたまま時間だけが過ぎていくような気がしています。

大阪市内のローカル線「南海汐見橋線」に乗ってきた

南海汐見橋線とは

南海汐見橋線の路線は

始発は京セラドームにほど近い汐見橋駅です。

阪神なんば線と大阪メトロ桜川駅に接した小さな駅。

 

ここから南へ天下茶屋の一駅先の岸里玉出駅まで

5つの駅の約4.6㎞を9分かけて2両編成で走ります。

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始発は6:10から終電は22:45まで

ほぼすべての時間帯で30分ごとに運行されます。

南海汐見橋線の歴史は

元々は高野鉄道(現南海高野線)が

大阪市内に延伸する際の1900(明治33)年に

開業されました。

合併した南海電鉄難波駅をターミナルにしたため

1929(昭和4)年に支線化されて

大阪市内のローカル線となってしまいました。

 

2000年代半ばには汐見橋駅に利用者は

300人程度にまで減少してしまったそうです。

阪神難波線が開通して500人程度に増加したそう)

 

それでもこの路線が残っていたのは、

2004年の近畿交通審議会で関西空港への短絡線

なにわ筋線の南海電鉄とJRの乗り入れ駅が

汐見橋駅JR難波駅とされたからでした。

(下図の緑色の部分)

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ところが2017(平成29)年に南海電鉄

難波駅に隣接する新難波駅経由でなにわ筋線に

乗り入れることが決定してしまい

汐見橋線ルートとはならなくなってしまいました。

これですぐ南海汐見橋線が廃止されるということは

無いのでしょうが、将来的にどうなるかは心配です。

南海汐見橋線各駅探訪

汐見橋駅

阪神なんば線桜川駅に隣接していますが、

洒落た阪神の地下に降りるエレベーターと

南海汐見橋駅のレトロ感のコントラストがシュールです。

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始発(終点)駅なのにホームは1つ。

浪速区桜川の都会にありながら駅はひっそりと

ほとんど人気はありません。

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以前は改札の上に

大きな南海沿線の案内図があったのですが

老朽化が激しく、撤去されてしまいました。

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芦原町駅

大阪環状線芦原橋駅とは約200m離れています。

駅名は当時の所在地名「難波芦原町」が由来です。

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相対式ホーム2面2線ですが、駅上橋は無く、

汐見橋駅方面の電車に乗る場合は行内踏切を渡ります。

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木津川駅

大阪市西成区津守にある秘境駅として

ある意味有名な駅です。

1日当たりの乗降客は100名足らずで、

南海汐見橋線としては最小の乗降客数です。

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1960年代までは、

和歌山から運んだ木材を降ろす貨物駅として賑わいましたが

今は駅前にはコンビニ1軒すらありません。

人影もほとんどなく、私と同じようなカメラを抱えた

変わり者のお兄さんが一人写真を撮っていました。

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津守駅

大阪府立西成高等学校の最寄駅で

その隣には西成公園や津守下水処理場があります。

元々西成高等学校と西成公園が出来る前には

大日本紡績木津川工場が立っていました。

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その頃は工場に通う工員がこの津守駅を利用して

大変賑わっていたそうです。

そのころには繁盛していたであろう津守商店街も

日曜日だからなのかひっそりとしていました。

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西天下茶屋駅

私が東京から転勤してきたばかりの頃、

天下茶屋は「てんかぢゃや」と読むと思っていたのですが

正式には「てんがちゃや」でした。

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この付近は大阪の下町らしく活気があります。

駅南側の西天商店街(銀座商店街)は、

NHK連続ドラマ「ふたりっ子」の舞台になっていました。

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岸里玉出駅

南海汐見橋線汐見橋を出て終点がこの駅です。

南海電鉄南海線高野線汐見橋線の分岐点ですが

優等列車は止まりません。

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高架駅になっており、2階がコンコースで3階がホーム。

元々は、岸里駅と玉出駅は別々にあったのですが、

南海線の高架時に一つの駅になったそうです。

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駅の周りはマンションや住宅が並ぶ住宅街です。

ここから先に行くには、南海線高野線に乗り換えです。

こうしたゆったりと電車に揺られる光景は、

果たしていつまで見続けることが出来るのでしょうか。

スマートニュース砲について考えてみた

過去に2回のスマニュー砲

1回目はJAL国内線B787-8搭乗記

この記事がブログを始めての365記事目です。

記念号といったところでしょうか。

とは言っても弱小ブログ、

毎日のPVは多い日で300、少ない日で100位です。

お読みいただいている方には本当に感謝です。

 

こんなブログですが、過去2回、

スマートニュースに取り上げられました。

1回目はこちらの記事

JAL国内線B787-8に初搭乗でした。
itmbase.hatenablog.jp

 1日のPVが3,500を超えて、

何が起きたのかわからないまま、

それでもすごくテンションが上がって、

ブログ持続のモチベーションの維持に繋がりました。

2回目はハイアット・リージェンシー・バンコクスクンビットの記事

2回目の記事はこちらでした。

itmbase.hatenablog.jp

新型コロナウイルスバンコク旅行をキャンセルした際に

HISのキャンセル期間が経過していたにもかかわらず、

ホテルに直接メールをして、

ハイアット・リージェンシーの現地ホテルの対応で、

無事に多額のキャンセル料がかからずに

全額返金して頂いたという記事です。

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この記事を上げた3月8日にPVは1,000を超え、

3月9日もPVは約1,000、

3日目の3月10日も640のPVがありました。

どこまで記事にするか 

相手の立場になって考えよう

ハイアット・リージェンシーの記事は、

実は下書きの段階では、ホテルとのメールの内容を

事細かに書いていました。

 

しかし、落ち着いて考えた時に、

ホテル側は好意で対応してくれているのに

それをすべて晒してしまうことで、

逆にホテルに迷惑がかからないか

ふとそんなことを考えました。

 

実際に上げた記事では、メールの内容を

かなりぼかした文章に修正しました。

その記事がスマートニュースに取り上げられました。

結果的に良かったと思っています。

自分の意見は主張するけれど

自分の意見はしっかり主張して

自分で責任を取れば良いと思っています。

 

ただ、自分が書いた記事が独り歩きをして

結果誰かに迷惑がかかることに対しては、

充分に注意をしなければいけないと感じました。

 

弱小ブログでもスマートニュースに取り上げて頂き

多くの方に自分の記事を読んでいただけることは

大変ありがたいことだと思います。

 

一方、多くの方に記事を読んでいただく以上、

自覚を持って書かなければいけないと

今回のスマートニュース砲の件で考えさせられました。

大正昭和のモダニズム レトロな大阪の建物巡り~4

北浜周辺のレトロ散策 

武田薬品本社(杏雨書屋)

これが世界的大企業である武田が1992(平成4)年まで本社を置いた建物です。1928(昭和3)年築のレトロなビルです。

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設計は片岡建築事務所です。現在は、武田科学振興財団が運営する杏雨書屋があります。「きょううしょおく」と読みます。

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五代武田長兵衞氏が収集した日本・中国の本草医書の書庫である「杏雨書屋」がルーツです。もとは十三の工場エリアにありましたが、2013(平成25)年に旧本社ビルへと移転してきました。

 伏見ビル

1923(大正12)年に建てられた鉄筋コンクリート作りの建物は、永田岩次郎氏の設計で、澤野ビルとして建てられ、当時としては珍しいホテルとして利用されました。

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昭和に入ってビルの所有者が変わり、テナントビルになりました。この建物は国登録有形文化財に指定されています。後述する青山ビルと隣同士に建っています。

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青山ビル

青山ビルは1921(大正10)年に落成されました。地上5階地下1階建で、施工は大林組です。戦後はGHQの施設になっていたようで、昭和26年に返還されました。

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外壁は甲子園球場から株分けしてもらった蔦に覆われています。国登録有形文化財です。現在は、中国料理竜門がテナントとして入っている他テナントビルとして利用されています。

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生駒ビルヂング

株式会社生駒時計店が入る生駒ビルヂングは1930(昭和5)年に建築されました。5階建の時計塔を持つビルで、設計は宗兵蔵です。

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外壁にスクラッチタイルを用いることや、バルコニーや出窓などに曲線や装飾を有効に配するデザインによく時代の特徴があわらわれています。国の登録有形文化財に指定されています。

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 肥後橋、堂島周辺のレトロ散策

山内ビル

1930(昭和5)年に法律事務所として建設された事務所建築で外壁は褐色タイル貼りです。入口には山内法律特許事務所の名前が掲げられています、正式名は「山内香法律特許事務所」ですが香の文字が経年劣化からか消えています。

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一階東端の入口を花崗岩で縁取り二階の窓台装飾を垂らしてアーチの中心飾りとしています。褐色のタイル張りが重厚な趣を醸し出しています。1階には宝飾店のアガット肥後橋店が入居しています。こちらの建物も国の登録有形文化財です。

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中央電気倶楽部

中央電気倶楽部は、堂島川に架かる渡辺橋の近く、堂島の一角に褐色のスクラッチタイルが張られたレトロなビルです。会館は当初、1912(大正3)年に建設されましたが、これは竣工まもなく原因不明の火災によって全焼してしまい、二代目の建物は同5年11月に再建されました。

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このとき施工にあたったのは清水組で、設計は野口孫市だったと伝えます。ところが、この建物もすぐに利用者の増加によって手狭になったため、1927(昭和2)年には新館建設が決議され、東隣の土地117坪を買い足して敷地が354坪に拡張されました。そして建物は葛野建築事務所(葛野壮一郎)の設計、大林組の施工によって同4年6月に着工され、翌年10月に竣工しました。現在はこのときのものが残っています。

 

今回の大正昭和のモダニズム レトロな大阪の建物巡りは今回で終了となります。長い間お読み頂きましてありがとうございました。

 

大阪ミナミのレトロな建物も今後巡ってしょうかいできるきかいがあればと思います。