暗い影「地震」と「戦争」 太平洋戦争 江戸東京博物館より
太平洋戦争
日中戦争の果てに
軍国主義に邁進した日本は盧溝橋事件を発端に
1937(昭和12)年9月より日中戦争(当時は支那事変)に突入しました。
そして以下はWikipediaからの引用になりますが、
「予想外の総力戦となった日中戦争は泥沼化し、解決のめどが立たなくなっていた。
そのため日本は南進を行い、中国国民党への物資の補給路を断ち、石油などの戦略物資を入手することで日中戦争の解決を図った。
南進が欧米の反発を買うことは必至であったが、欧州は第二次世界大戦により東アジアより後退していたため、アメリカへの対策が問題となった。
そこで日独伊三国同盟や日ソ中立条約を結び、アメリカを包囲することで南進への反発を抑えようとした。
しかしアメリカはこれに強く反発し南進を認めず、日米開戦へと至った。」
1941(昭和16)年12月8日ハワイオアフ島にある
太平洋戦争は開戦しました。
開戦直後は日本軍が優勢の場面もありましたが、
国力の圧倒的な差からアメリカから反撃を受け、
日本国内も空襲の攻撃を受けるようになりました。
戦時中の庶民の暮らし
下は空襲が本格化する前の
東京下町にあった木造家屋の一部再現です。
窓には爆風によるガラスの散乱を防ぐために紙が貼られ、
電灯には明かりが外に漏れないよう灯火管制用のカバーが掛けられていました。
室内には防空頭巾や鉄カブトが置かれ、
空襲の情報を仕入れるためにラジオは必需品となっていました。
1942(昭和17)年4月18日の初空襲の後、
防空訓練は日常化しました。
内務省からは各家庭で準備すべき消火道具が示されました。
用水をためておく貯水槽や、消火用の砂袋、注水用のバケツなどです。
竹竿に縄をくくりつけられた火叩きは、
火の粉を消すための道具でした。
政府は、貴金属や繊維、革製品、ゴム、石炭、石油などの
民間での使用を規制し、
家庭内の貴金属や、鉄製品の改修を推し進めました。
その為、日用品は金属に代わって、
陶磁器や木製品、紙製品に置き換わっていきました。
東京大空襲
アメリカ軍の戦略爆撃
太平洋戦争当初は、アメリカ軍の基地はインドカルカッタにあり、
中国成都を経由して日本に空襲を行っていたことから、
飛行距離の関係で九州に空襲を行うことが精一杯でした。
戦争が進み、グアム、サイパンを日本から奪取し、
日本列島のほぼすべてが爆撃範囲となりました。
東京都は1944(昭和19年)11月24日以降106回の空襲を受けました。
特に1945(昭和20年)に5回の大規模空襲を受けました。
下は5月25日の空襲の被災地域です。
東京都のほぼ全域が焼き尽くされました。
学童疎開
1944年にアメリカ軍の空襲が起こってから、
学童を田舎の比較的安全な地域に避難させる学童疎開が始まりました。
疎開先では、公会堂、寺社、旅館などが宿舎となり、
そこで授業も行われました。
1945年までの疎開児童は約45万人に上ったと言われています。
終戦
1945(昭和20)年8月15日ポツダム宣言を受け入れて
日本の降伏で、太平洋戦争は終わりました。
1945(昭和20)年9月の初め、
新聞に「光は新宿よりー」というキャッチコピーとともに
新宿マーケットの広告が載りました。
戦争が終わって、1月も経たないうちに
闇市が生まれたのです。
空襲で焼け野原となっていた駅前に誕生し、
鍋や包丁、茶碗などの生活用品が販売されました。
10月頃までには、新宿の他、上野、銀座、渋谷、新橋など
都内各所の駅前に大きな闇市が出来ました。
ここから日本の戦後の復興が始まっていったのです。