近代の大阪は大大阪時代を迎えて 大阪歴史博物館を訪ねて
大阪の近代化
官制工場に支えられて
江戸時代が終わって、明治時代を迎えると大阪の経済は一時的に落ち込みました。
そこで、新しい政府は、大阪に二つの官制の向上を工場を作りました。一つが造幣寮、そしてもう一つが砲兵工廠でした。
また、大阪周辺では綿花の栽培が盛んで民間の紡績工場が数多く作られるようになってきました。
こうした製品の輸送のために大型船が入港できるように港の整備がすすめられ、これとともに造船所が建設され、重工業も発展していきました。
こうして近代の大阪は産業都市として発展し、「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになっていったのです。
第5回内国勧業博覧会
1903(明治36)年には第5回内国勧業博覧会が大阪市天王寺今宮で開催され、435万人の参加者を集めました。
海外からはイギリス、ドイツ、アメリカ、フランス、ロシアなど全10か国が参加し、将来の万国博覧会を意識した博覧会だったようです。
目玉はアメリカから出展された8台の自動車でした。
当時の第5回内国勧業博覧会と、博覧会後の新世界の様子が写真に収められています。
大阪御堂筋
大阪~神戸を結んでいた蒸気機関車は1889(明治22)年には東京(新橋)まで結ばれるようになり、大阪駅は大阪の玄関口として重要視されるようになってきました。
1919(大正15)年に道幅6mであった御堂筋を梅田~難波間で幅44mの道路に拡幅することが発表されました。
第7代大阪市長であった關一は、この計画を引き継ぐとともに、御堂筋の地下に地下鉄御堂筋線を走らせる計画も発表しました。
大大阪時代
日本最大の都市
1923(大正12)年の関東大震災で、東京から大阪に移り住んだ人による人口の急増と、1925(大正14)年の西成郡、東成郡の大阪市への併合により、人口は首都東京府東京市を凌ぐ211万人となりました。
この時の大阪は日本最大の都市になったばかりだけでなく、世界でも第6位の都市になりました。この時代のことを大大阪時代(だいおおさかじだい)と呼んでいます。
街を拡大して郊外に広げるとともに、自動車の普及に合わせ、道路を広げ、その下に地下鉄を建設するなど近代都市の基礎が次々と整備されていきました。
郊外の高級住宅地の家の中の様子です。
また、この頃は各地に公設市場が整備されていきました。
その様子がこちらです。
重工業を支えていたのが町の小さな中小企業の工場です。
朝早くから夜遅くまで必死に働いていた様子がうかがわれます。
そして庶民の暮らしです。
戦争の時代
平和な時代は長くは続かず、1930年の日本は戦争の時代を迎え、大阪の町もその中に巻き込まれていきました。
1945(昭和20)年の大阪大空襲によって町の3分の1が焼失されてしまいました。
戦後は高度経済成長、大阪万博を経て今に至っています。
2025年の大阪万博を迎え、今後大阪はどのように変わっていくのでしょうか。
大阪歴史博物館を訪ねて4回に分けて、大阪の町の歴史と変遷について自分の感想も含め記事にさせて頂きました。