散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする 江戸東京博物館より
大政奉還による無血開城
江戸から明治へ
徳川幕府が265年という長い期間政権を握っていた江戸時代は、
ペリーが来航することで、
今まで鎖国状態にあった日本は、外国の力の強さを痛感し、
幕府は日米修好通商条約を結ぶことになってしまいました。
この条約は不平等条約で、
函館、新潟、横浜、神戸、長崎の5港を開港、
治外法権を認める、
関税自主権がない
といったものでした。
貿易が開始されたことにより、
安価な綿製品が大量に輸入され、
生糸やお茶の値段が高騰しました。
日本と外国との金銀の交換比率の差から金が流出し、
金の流失を抑えようと質の悪い金貨を発行し、
その結果、インフレが蔓延して経済が混乱しました。
下級武士や庶民は経済的に大打撃を受け、
幕府への不満も高まっていきました。
こうした流れを受け、倒幕と尊王攘夷論の流れが高まり、
政権を朝廷に返上し、江戸時代は終わったのです。
明治維新を迎えて
明治政府に代わってからは、政府主導で積極的に、
海外の文化を取り入れるようになっていきました。
1870(明治3)年、先進国の国情を視察するために、
岩倉使節団が派遣されました。
約2年に亘って、アメリカやイギリスなど14か国を巡り、
近代国家の技術や文化を学んできました。
岩倉使節団の帰国後、
近代国家建設”をスローガンに、
西洋の制度や技術の輸入に、より一層注力しました。
鉄道、郵便、電信、電話などの西洋の交通・通信手段が導入され、
人や物衣服や住宅、文学や演劇など、
生活や文化の面にも欧米文化の導入が推し進められました。
街にはガス灯がともり、道には馬車が走ります。
着物から洋服姿になり、ちょんまげは切り落とされ、
散切り頭がブームになりました。
まさに文明開化です。
近代国家へ
洋風建築物の建築ラッシュ
街には近代国家にふさわしい建築物も、
次々に建設されていきました。
外国人居留地が置かれ、
商社をはじめ、公使館、領事館、教会、ミッションスクールなどの
洋風建築物が建ち並びます。
第一国立銀行は1873(明治6)年に
渋沢栄一により創設された日本最古の銀行です。
場所は兜町海運橋東詰にありました。
為替バンク三井組は1874(明治7)年に完成した建物です。
場所は現在の中央区で設計者は清水店(現在の清水建設)でした。
鹿鳴館は1883(明治16)年に建築されました。
国賓や外国の外交官を接待するための建物で
外国との社交場の場として作られました。
場所は現在の千代田区内幸町で、薩摩藩の邸宅の跡地だったそうです。
銀座煉瓦街
1872(明治5)年に、築地から京橋、銀座一帯を大火が襲いました。
これをきっかけに、明治政府は東京を
欧米並みの不燃都市に改造することに決めました。
この構想から生まれたのが「銀座煉瓦街」です。
六間(約11m)しかなかった道幅は
十五間(約27m)の大通りになりました。
中央八間は馬車道、左右は煉瓦や石敷きの歩道へと代わり、
ガス灯も設置されました。
建物は煉瓦と石を使った2階建て長屋式で、
アーケードのついたジョージアン様式で統一されました。
こうして、銀座の街は文明開化のシンボルになったのです。