空へ!!

旅行やマイルの話を中心に、たまにグルメやラーメンの話など気ままなことを好きなように書いている大阪発信のブログです。

火事と喧嘩は江戸の華 江戸東京博物館より

江戸の大火

江戸は2~3年に1回大火に見舞われていた

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるように、

江戸時代の江戸の町は多数の火事に見舞われました。

f:id:ITMBASE:20200111093624j:plain

一説によると江戸の大火は100回以上起こったとも言われ、

2~3年に1回は大火に見舞われたそうです。

中でも「明暦の大火」「目黒行人坂の大火」「丙寅(ひのえのとら)の大火」は

江戸の三大大火と呼ばれ、江戸の町に大きな被害をもたらしました。

 明暦の大火

1657年(明暦3)1月18、19日の両日にわたって

江戸の町が大火に見舞われました。

この大火は振袖(ふりそで)火事、丸山火事とも言われています。

f:id:ITMBASE:20200111093758j:plain

前年11月以来80日も雨が降らず乾燥しきっていたうえ、

北西風が激しく吹いていました。

本郷丸山の本妙寺他3か所から出火しました。

その火は大名屋敷500、旗本屋敷770、寺社350、

橋60、町屋400町を焼き尽くし、

19日正午過ぎには江戸城天守閣に火が入って焼け落ち、

本丸・二の丸も焼失してしまいました。

 

類焼地域は江戸全市に及び焼死者は10万人を超えました。

寒気と21日の大吹雪のため罹災(りさい)者の凍死する者が多く、

幕府は救(すくい)小屋を設けたり粥(かゆ)の施行(せぎょう)をして

救済にあたりました。

 

この大火を機に江戸の都市計画が進められ、

大名、旗本宅地の引き替え、寺社の移転、火除地(ひよけち)、

広小路の新設など多方面に及んだそうです。

 

振袖火事の名称の由来は、

亡くなった16歳の娘の供養で着ていた紫の振袖を焼き捨てたところ、

火がついたまま舞い上がって本妙寺本堂に燃え移り、

ついに江戸中を焼き払ったためと伝えられています。

目黒行人坂の大火

明和9年2月29日(1772年4月1日)に、江戸で発生した大火で、

目黒行人坂(現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、

目黒行人坂大火と呼ばれています。 

f:id:ITMBASE:20200111093859j:plain

類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えました。

山王神社神田明神湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災しました。

死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えたそうです。

 

出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という僧侶による放火でした。

真秀は明和9年(1772年)4月頃に捕縛され、

同年6月21日(1772年7月21日)に市中引き回しの上、

小塚原で火刑に処されました。

丙寅の大火

文化3年3月4日(1806年4月22日)に江戸で発生した大火のことで

丙寅の年に出火したため、丙寅の大火と呼ばれています。

出火元は芝・車町(現在の港区高輪2丁目)の材木座付近で

薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)や増上寺五重塔を全焼させました。

折しも西南の強風にあおられて木挽町数寄屋橋に飛び火し、

そこから京橋・日本橋の殆どを焼失。更に火勢は止むことなく、

神田、浅草方面まで燃え広がりました。

 

翌5日の降雨によって鎮火したものの、

延焼面積は下町を中心に530町に及び、

焼失家屋は12万6000戸、死者は1200人を超えたと言われています。

大火の原因と対策 

火事の原因

火事の原因には、調理や照明用に火を使用することによって発生する失火、

様々な動機による放火などがありました。

 

江戸の大火が他の大都市に比べて多かった理由としては、

膨大な人口が居住することによる建物の密集や困窮した下層民の存在、

江戸の独特な気象条件などがあげられます。

 

特に江戸の火事の原因としては、放火が多く記録されています。

江戸の物価の高さや保証人がなく奉公に出られないことなどにより、

困窮し江戸で生活していけなくなったものが多かったことや、

火事で焼け出されたとしても、失うものが少ないことが背景にありました。

 

また火事の騒ぎに紛れて盗みを働くことを目的とした火事場泥棒であったり、

奉公人による主人への不満や報復・男女関係による怨恨や脅迫など、

人間関係に起因する放火も多かったようです。

町火消

享保5年(1720年)、享保の改革の一環として町火消が制度化されました。

これは町人による火消であり、

各町ごとに火消人足の用意と火事の際に出動する義務を課したものです。 

f:id:ITMBASE:20200111094321j:plain

町奉行に就任した大岡忠相が名主などの意見も取り入れて考案し、

複数の町を「組」としてまとめ、

隅田川から西を担当するいろは組47組

(のちに1組増加していろは四十八組となる)と、

東を担当する本所・深川の16組が設けられました。

f:id:ITMBASE:20200111094035j:plain

また、享保15年(1730年)には、

火事場への動員数増加と効率化を目的として、

数組ずつに分けて統括する大組が設けられました。

 

町火消は当初町人地の消防のみを担当していましたが、

町火消の能力が認められるに従って活動範囲を拡大し、

武家地への出動をはじめ橋梁・神社・米蔵などの消火活動も命じられ、

江戸城内の火事にも出動しました。

 

幕末には武家火消が大幅に削減されたため、

江戸の消防は町火消が主力となって明治維新を迎えることとなりました。

火消の方法とは

火消は消火活動をするというより、

炎が広がらないよう被害を最小限にすることが主な仕事だったようです。

 

竜吐水(りゅうどすい)というポンプでチョロチョロと水を出して

桶で水をかけ、

メインの火消の方法は、

鳶口(とびぐち)やまさかりで建物を壊して延焼を防ぐことでした。

f:id:ITMBASE:20200111094114j:plain

f:id:ITMBASE:20200111094136j:plain 

風が吹いてきたら

何と、風下から大きな団扇であおぎ返すのでした。

 

火の延焼を防ぐよう、いろいろな試みが為されましたが、

あまり効果は上がらなかったようです。