近世の大阪は天下の台所 大阪歴史博物館を訪ねて
商人の町大阪
本願寺の寺内町から大坂城の城下町へ
(当時の大阪は大坂、現在の大阪は大阪と表記します)
織田信長の死後、後を継いだ豊臣秀吉は本願寺の跡に大坂城を建築しました。
城造りと同時に町の建設も開始しました。
東西南北の真っ直ぐな道路で区画した大坂の町並みは現在まで引き継がれています。
窓ガラスが光って綺麗な写真が取れていませんが、大阪歴史博物館の窓からも大阪城が良く見えます。
徳川家康は、大坂城を二度にわたって攻め、大坂冬の陣の時には大坂城を守り切ったものの、大坂夏の陣によってついに大坂城は落城させられました。
この時に大坂の町も大部分が焼けてしまいました。
水都大阪は商業の中心地に
大坂の町は再建を進め、17世紀の終わりまでには戦争以前の賑わいを取り戻したと言われています。
水都大阪と言われるように、運河や川が町中に張り巡らされた中、水運を中心とする交通が発達していた大坂は全国各地から商品を集めるのに便利であったことから商業が非常に盛んになり、日本全国の商業の中心地となりました。
全国の藩が大坂に蔵屋敷などを構えて、生活物資の大部分が一旦生産地より大坂に集められ、再度全国の消費地に送られたことから、大坂は天下の台所と呼ばれました。
広島からの年貢米の米俵を乾燥させて蔵に収納される様子が表現されています。
広島藩の蔵屋敷は最近発見調査が進み、大きな船入り跡や御殿の遺構などが発見されているようです。
こちらが当時の大坂の町並みです。
当時の大坂の産業
堂島米市
大坂に集められた米は堂島米市で売り買いされました。
堂島米市では、実際の米の現物を売り買いする代わりに蔵屋敷が発行した米切手(引換券)を使って売買していました。
これは、今で言う「先物取引」です。
大坂の堂島米市は世界で初めて先物取引が行われた市場と言われています。
銅の精錬
江戸時代の大坂は商業だけでなく、工業も盛んでした。
生活用具なども作られていましたが、最も特徴的な工業は、銅の精錬でした。
江戸時代、日本は世界有数の銅の産出国でした。
大坂島之内に日本最大の住友の銅吹所があり、日本の生産量の3分の一を精錬したと言われています。
住友は若狭をはじめ沢山の銅山を所有していましたが、1690年代(元禄時代)の愛媛の別子銅山を発見し、益々栄えて行きました。
下の模型は住友銅吹所の模型です。
輸出用の銅はすべて大坂で作られ、長崎からオランダ、中国、朝鮮に輸出されていきました。
歌舞伎や人形浄瑠璃
多くの人々が暮らしていた大坂では「歌舞伎」や「人形浄瑠璃」などの娯楽も発展していきました。
それらの劇場は道頓堀沿いに小屋を構え、大変賑わったそうです。
しかし、こうした太平の世も終わりを迎えます。
倒幕運動がおこり、1863年の戊辰戦争で大坂城も焼けてしまいました。
江戸幕府も倒され、江戸時代は終わりました。