中世の大阪は本願寺とともに 大阪歴史博物館を訪ねて
中世の大阪
四天王寺
難波宮が無くなった後、大阪の町の中心になったのが四天王寺でした。
四天王寺は6世紀末に聖徳太子が建立したとされる日本でで最も古いお寺の1つです。
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13世紀から14世紀に描かれた絵巻物には四天王寺を訪れた人の姿が描かれています。寺の周りには町がつくられて賑わっていたそうです。
四天王寺は度々災害に見舞われました。
1576(天正4)年には、石山本願寺攻めの兵火で焼失します。
豊臣秀吉が再建しましたが、1614(慶長19)年の大坂冬の陣で焼失しました。
その後江戸幕府の援助で再建されましたが、幕末に落雷で焼失しました。
本願寺
15世紀の終わりごろには、もう一つの重要な寺院本願寺が大阪に出来ました。
1496年(明応5)年9月に蓮如が坊舎(大阪御堂)を建築したのが石山本願寺の始めと言われています。
石山本願寺を中心に作られた寺内町が、港湾都市で国内流通の中心であった住吉津や難波津を巻き込んで大坂の源流になったとされています。
翌年には石垣で囲まれた扉御門が完成し、要害の寺院が完成しました。
こちらが石山本願寺の復元模型です。
現在の大阪城の付近にあり、1580(天正8)年まで浄土真宗の総本山として教団で最も重要な施設でした。
中世大阪の町並み
大阪近辺の中世都市として1568(永禄9)年の堺の町並みが復元されています。
この時期は織田信長が京都に上洛する際の軍用金を堺に課した後の頃だそう。
地図を見ると石山本願寺の大きさと周りの町が取り囲む様子がよくわかります。
石山本願寺の最後
石山本願寺の隆盛
細川晴元との抗争中に石山本願寺は寺領を拡大し、周囲に堀や土塁を作り、塀や柵を張り巡らして寺内町としての防備を固めて、要害堅固な城郭都市になっていたと考えられています。
敵方であった細川晴元の養女を正室として迎え入れ、石山本願寺は絶頂期を迎えて行きました。
石山合戦
16世紀の終わりごろ、力をつけてきた織田信長が大阪に攻めてきました。
織田信長は何年もかけて本願寺を攻め続けましたが、落とすことは出来ませんでした。
最後は天皇の力を借りて、本願寺を別の土地に動かすことに成功しましたが、織田信長はその直後、本能寺の変で明智光秀に反逆されて自殺し、その生涯を閉じることになってしまいました。
石山本願寺の跡地には大坂城(大阪城)が建てられ、石山本願寺の要害が利用されたそうです。豊臣秀吉が大坂城を築き、城下町を建設したために、石山本願寺の規模や構造などはほとんどわからなくなってしまったようです。
次回は近世の大阪についてです。