トヨタ産業技術記念館 自動車館成長期編
トヨタ自動車の歴史
独自研究の必要性
豊田喜一郎氏は国産自動車を開発した後も、
自助努力による独自の技術開発が必要と考え
東京芝浦に研究所を設立しました。
1937(昭和12)年に豊田自動織機製作所の自動車部は
トヨタ自動車工業として独立し、
研究所もトヨタ自動車工業の研究所となりました。
そこでは、自動車関連だけではなく、
航空機や、戦時統制下には
ガソリンに代わる代替燃料の研究も行われたそうです。
豊田喜一郎氏の次のような言葉が残されています。
今迄の様に欧米に頼って人の苦心研究したことを最も楽をして自分のものにしようと云ふ気分は、段々なくしてゆきたいと思ひます。勿論人のやったものをそのまヽ輸入する必要もありますが、何と云っても苦心してそこまでもって行った者には尚それをよりよく進歩させる力がありますが、人のものを受けついだものには、楽をしてそれだけの知識を得るだけに、更に進んで進歩させると云ふ力や迫力には欠けるものであります。日本の真の工業の独立をはからんとすれば、この迫力を養はなくてはなりません。
(トヨタ自動車75年史より引用)
戦後の再開とトヨタの復活
戦後、乗用車の生産を禁じていたGHQ(連合国軍総司令部)は、
1947(昭和22)年6月に
1500CC以下の乗用車の生産を年間300台に限り許可しました。
SA型乗用車は、1947年10月から1952年にかけて
197台が製造されました。
これにボデー・メーカーが製作したボデーを架装して、
完成車に仕上げました。
これが戦後トヨタ自動車の復活です。
モータリゼーションの幕開け
初代クラウン
1949(昭和24)年に乗用車生産の制限が解除され、
国情にあった自動車の開発が本格化しました。
初代クラウンはその先駆けとなったもので、
トヨタが独力で純国産技術により開発した
最高速度は時速100kmで
1956年「ロンドン・東京5万キロ」走行に挑戦、成功しました。
大衆車の時代
日本経済は、1955(昭和30)年から1970年にかけて、
世界に類例を見ない高度成長を遂げました。
こうした経済成長に伴う確実な所得の上昇は、
個人消費の急速な拡大をもたらしました。
3種の神器(テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機)の普及が一段落し、
「3C」と呼ばれる大型耐久消費財が
新たに庶民の願望の的となりました。
カー、クーラー、カラーテレビのことです」。
自動車は、1960年代後半初頭の各社の1000クラスの
大衆乗用車の充実により、マイカーブームを招来しました。
トヨタ自動車工業は新しい大衆乗用車を
1963年5月にパプリカを発売したのです。
しかしながら、価格は軽自動車並みでしたが
その装備類は極めて質素なものでした。
ラジオやヒーター、燃料計やサイドミラーも装備されず、
高級感を求めた大衆の「夢」からはかけ離れ、
商業的にはうまくいかなかったようです。
大ヒット トヨタカローラ
1966年にはトヨタカローラを発売、
機能主義で商業的には成功しなかった
パプリカの一つ上を行くデラックス感で大成功し、
世界的にも大ヒットしました。
累計販売台数は今でも世界第一位だそうです。
リコール問題、対米輸出による貿易摩擦、交通事故への対応、
排出ガス規制、石油ショック等、
あらゆる社会的要請もありましたが、
こうしたことを乗り越えながらトヨタの今がある、
ということもトヨタ産業技術記念館に行けば見ることが出来ます。