古代の大阪難波宮 大阪歴史博物館を訪ねて
前期難波宮(なにわのみや)
大阪歴史博物館
大阪歴史博物館は、昔、難波宮があった場所に建てられています。
古代から現代までの大阪の歴史が展示されています。
大阪歴史博物館に行ってきましたので、大阪の歴史と大阪歴史博物館についてお伝えしたいと思います。
大阪歴史博物館は、10階から7階まで、古代の大阪から中世、近世、近代に分けられて、ブースを設けて、説明をされている見た目にも楽しい博物館です。
場所は地下鉄谷町4丁目駅の近くにあります。
今日は古代の大阪について見てみます。
前期難波宮は飛鳥時代
645(大化元)年に孝徳天皇が大化の改新によって飛鳥から難波に遷都して難波宮がつくられました。
ちょうど乙巳の変で、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀続いた蘇我体制を滅ぼした、この時期のことです。
新しく作られた宮殿は日本で初めて中国の都をモデルにしてつくられたそれまでにない大きな規模で美しい建物が並んでいたといわれています。
下の写真は大阪歴史博物館に飾られている前期難波宮の復元模型です。
孝徳天皇没後は、都を飛鳥に戻しましたが、その後天武天皇の時代になって、副都ととして都に返り咲きました。
しかし、都の建設から40年後に火事でほとんどの建物が焼けてしまったそうです。
後期難波宮
後期難波宮は奈良時代
726(神亀3)年、聖武天皇が平城京の副都として難波宮の造営に着手しました。
これを後期難波宮と言います。
宮殿の中で一番大きな建物を「大極殿」といいます。博物館の展示場ではこの「大極殿」の様子を実物大で再現しています。
現在難波宮の跡地の一部は難波宮跡公園として整備されており、大阪歴史博物館からも見ることが出来ます。
難波宮の敷地はとても広大で、難波宮跡公園の他、高速道路を挟んだ、こちらの博物館側も難波宮の跡地です。
こちらが後期難波宮の模型です。
真ん中の赤い建物が「大極殿」です。そして難波宮跡公園の白く見える台座がこの「大極殿」のレプリカです。
いかに広大だったかがわかります。
784(延暦3)年、難波宮は長岡京に遷都され、その役割を終えました。
難波宮は解体され、長岡へ船で運ばれていきました。
しかし、難波津を拠点とする貴族や寺社などによる経済活動はそのまま続き、周辺は発展していったと考えられています。
発見の経緯
難波宮の存在は日本書紀にも書かれており、存在は認識されていましたが、場所は全くわからなかったそうです。
1913(大正2)年に大阪城の近くの法円坂で奈良時代の瓦と思われる物が発見されましたが、その時にはそのままとなっていました。
1957(昭和32)年に南北に続く回廊が発見され、その翌年に奈良時代よりも古い柱列跡が発見されました。これが、後期難波宮と、前期難波宮であったことが分かりました。
都会の真ん中でよくこんな広い土地が残っていたのかと不思議に思うのと同時に、長い歴史のロマンが感じられました。
次回は中世の大阪のブースに移ります。