明日香村探訪その3 石舞台に行ってきた
石舞台古墳まで
土佐街道
大和平野と吉野の街の文化の交流地点として人々が行きかったところです。
今でも江戸時代の街並みが残っています。
そしてここ土佐街道のある高取町は江戸時代から薬の行商が広まったくすり町だそうです。毎年一定のくすりを得意先に預け、次回に利用した分だけを集金する方法です。
年1回か2回、決まった時期に柳ごおりを担いで、全国各地の家庭を訪問していきました。
奈良交通バスで
橿原神宮駅東口からは奈良交通のバスで石舞台古墳に向かいます。
バスは1時間に2本程度。
バスに乗って20分程度で石舞台古墳に到着します。
石舞台古墳に来たのは高校時代の修学旅行以来数十年振りです。
当時は歴史にはあまり興味が無かったので、なんでこんなところに連れてこられるのだろうと思っていましたが。
明日香村探訪の最終目的地「石舞台」
石舞台古墳とは
明日香村探訪で、高松塚古墳、キトラ古墳を訪ねて、最終目的地はここ石舞台古墳です。高松塚古墳、キトラ古墳は円墳の古墳でしたが、ここ石舞台古墳は古くから墳丘の封土を失い、石室の天井石を露出させていたようです。
天井石の上面が広く平らでまるで舞台のように見えることから石舞台と呼ばれています。
30数個の石の総重量は約2,300トン。特に天井石の重量は約77トンだそうです。どうやってこんな重い石を積むことが出来たのでしょうか。
築造は7世紀ごろと言われています。
当時の土木技術の高さが窺い知れます。
誰が埋葬されていたのか
被葬者は判明していませんが、わが国最大級の方墳で堀や外堀が存在することから、相当な権力者であったと考えられています。
一説によると大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父である蘇我馬子の墓ではないかと言われています。
また、別の説によると、天武天皇を仮に葬り祀った場所とも言われているようです。
秋の1日、明日香村を探訪して高松塚古墳、キトラ古墳、石舞台古墳を訪ねてみました。日本の始まりに触れて、すがすがしい気持ちで大阪に帰ります。
お読みいただきましてありがとうございました。